ウヨキョクセツ(仮)

躁鬱病改め、統合失調症らしい。闇をぶちまけたり、ぶちまけなかったり。

感情相乗奏

今週のお題「わたしのモチベーションを上げるもの」

毎朝読書をして一日の勢いを付ける。以前はそうしていたが、最近は調子があまり良くねぇ。クーラーの効いた部屋に寝転がり、一日中動けねぇ日も何日かあった。

そんな日は感情を揺さぶられねぇことをやるようにする。プラモデルを作るとか、パズルなんかをやるのも良いだろう。

ただ、そいつをやるのにもやる気ってもんが必要だ。俺の場合、夏の湿気に混じる負の感情を吹き飛ばすときゃ、音楽と決めていた。

音楽ってのは不思議なモンで、歌詞が皮肉なモンでも、メロディーによって元気をもらえちまうことだってある。歌手の感情に心動かされることだってある。

感情を揺さぶられたかないのにそれはどういう寸法だと言われるかもしれねぇが、俺が嫌なのは、もっと複雑な感情のことだ。そら、小説や映画なんかをみりゃ、登場人物に感情移入しちまうからか、手前が振り回されてる気分になるだろう?それに音楽は聞き流せるぶん、真正面から向き合わなくて良いって訳だ。種を飛ばすのはそよぐ風だ。影響は小さなものではないだろう?

 

 

下り階段一段版

気分が翻った。

今日は映画を観たり、ゲームをしたりして快活に過ごせたと思っていた。しかし、それらの疲労からか、気分は眩暈を覚えるほどに急降下し、すぐさま死が張り巡らされた懊悩に苛まれることになった。

つい数時間前までは気分が良かった。映画のメッセージを素直に受け取り、前向きになることができた。

その映画は、ジャンキーのストリートミュージシャンが一匹の猫と出会った所から、人生が好転していくという実話を元に作られた物語で、人生の起伏や唐突さなどがテンポ良く描かれている。

そこから、「人生生きていれば良いことがあるさ」ではないにしろ、自分もどうにか救われる日が来るのではないか、と希望を持つことができた。しかし、今の状態では希望の受容体が機能を停止していて、光を感じることすら危ういようだ。映画のことを思い出しても、「運の良かった奴が取り上げられたに過ぎない」と思ってしまっている。前向きになろうとする俺に対して、誰かが俺を押さえつける。「前向きに考えてはいけない」、と。

どんなメッセージを感じ取るかはその人間次第になるということは分かっている。受け取り方に問題があることは。「前向きに考えろ」、「深く考えるな」、そんな言葉には意味がない。俺はただ、沸いてくる感情に形を与えるに過ぎない。俺のこの感情は、タールのようなものだ。形の有無ではない。

前向きになる方法は、分からない。おそらく、眠ればいい。経験則から言えることだ。明日になれば元に戻っている筈だ。だが、しかし、死にかねない気分からすぐに前向きになれる俺とは、いったいなんなんだろうか。

サクレコーラ

今日は、むしろ調子が良かった。通常の感覚に少しまとわり付く鬱の感覚、おそらくこれが正常な状態なのだろう。

そんな日には、不思議と文章を書きたい意欲が湧かない。寝起きに考えていたネタも、今日見た夢とともに霧散した。何か人間関係に対する重要な所見だった気がするが...。

なので今日は軽妙に、ブログ然とした話題に転じてみようと思う。

最近俺は「サクレ」というアイスにハマっている。しかし、ただアイスにハマっているのではない。レモン味のサクレをタンブラーに入れ、そこにコーラを注ぐ。これがたまらなく美味い。

コーラにレモンの風味がプラスされ、そこにカキ氷の食感が加わる。炭酸の刺激と清涼感で、身体に風が吹き抜ける。

これを熱気が押し込められた部屋で飲むことのたまらないこと。なるほど、飲料での体温調整というのも悪くない。

この方法はSNSから流行したもので、これがきっかけかどうかは分らないが、サクレのコーラ味が発売されたらしい。

アレンジに邪道と言うなかれ。コーラの中のサクレが体現している。ただその中に身を浸すのだ。

自分の空間

俺はいつものようにベッドに横たわり、昇りきっていない朝焼けに身を浸しながら、携帯でTwitterを開いていた。前日からの鬱傾向を引き摺り、ネガティブなツイートを撒き散らす。そうなると、自然と話題は「自殺」についてのものになる。俺が自殺したら皆はこうしてくれ、こう思ってくれ、と、一種の遺言状にも似た文体で書きなぐっていた。文章にして吐き出すことで多少は楽になったのか、現実味の帯びた夢を見ながら眠りに就き、12時の鐘と夏の蒸し暑さで目を覚ました。

俺はチャットアプリで自分より不幸な人間を見て安心すると、溝を浚ったように軽快になった。レンタルビデオ店に行き、映画とバラエティ番組をレンタルすると、周囲の人々との緩い繋がりが社会に何気なく溶け込めている自分を実感させ、思考の歪みを取り払ったように思われた。

居間でレンタルしたバラエティ番組のDVDを休み休み視聴すると、時間はいつもの如く過ぎ去った。

手持ち無沙汰からTwitterを開くと、自殺に関しての俺のツイートにリプライがついていた。内容は、「自殺のツイートを見て気分が良い人はいないから、そんなことをツイートしないほうがいい。止めようと気にしてしまう」というものだった。おそらく、この人は理性で物事を考えている、「良い人」なのだ。だからこそ、忠告もするし、止められないものを止めようとする。しかし、相手の気持ちを考えることに欠けている。人の発言には「相手にこうしてほしい」という願望が付き纏うもので、この場合の俺は、「放っておいてほしかった」のである。あくまでも反論を求めた訳ではない。普通ならこのようなことがあれば、俺はその人のことを嫌いになるだろう。人は予想外のことをされるとその人のことを嫌いになる筈だからだ。しかし、相手の性格を受け入れている俺はそんなことにならない。それが、良いか悪いかはまた別の問題なのだ。

不安定

やめればいいものを、暇潰しという名目でチャットのアプリに手を伸ばす。性欲の殻の内側には何もない言葉が、風に吹かれて転がり来る。その中で、ゆっくりと、だからこそ目に付きやすい、密度の高い闇が、紛れて来ることがある。俺の性格からそいつを見過ごすことは満足できないので、なるべく軽快に話しかけ、中身を聞き出そうとする。中には、メッキのように内外の差が激しい奴もいて、肩透かしを食らうこともある。だが、延長線上に共依存の関係がチラつくほど、真に迫った奴もいる。

俺は愛を受け入れることができないのもあってか、愛を放射線状に振り撒きたい欲がある。受け入れるのが愛ならば、俺と他者の壁は透明に近い。怒りや、悲哀など、直に受け入れているようなもので、相談役としては一番不向きな人間だろう。

昨日は、人の悲しみに触れることが多かった。もちろん、自らの奥底から絡まるように這い出してきたものもあるのだが、とにかく、気分が晴れなかった。思考に雲がかかり、過去も未来も覆い隠された。今の一瞬は光を放つこともせず、ただ秒針を盾に、息を潜めた。携帯からインターネットで似たような絶望した人間を探し、それにアドバイスする回答者の意見を見ても、ポジティブな言葉が癪に障るだけだった。携帯を壁に叩きつけると、怒りは収まった。タバコが吸いたくなり、居間に行くと、父親が帰ってきていた。タバコを吸い、眠剤を飲んでいると、父親が他愛もない話で笑いながら話しかけてきて、なぜか腹が立った。自室に戻る際に、今度はペットボトルを扉に思い切り叩き付けた。母親の声が聞こえたが、どうでも良かった。今は早く、眠りに就きたかった。

部屋で首を吊れる場所を目で探し、諦め、眠剤が効くのを待った。様々な死の場面を夢想しながら、俺は眠りに落ちた。

 

脳内彼女

俺は薄暗い体育館のような広間に座っていた。自分の身体の小ささから見ると、一人称は僕、のほうが合っているのかもしれなかった。目の前には厚化粧をした先生が怒鳴り声を上げている。俺は罪悪感から嗚咽を漏らして泣いていた。

確かに、幼稚園の頃は活発で、人の言うことを聞かなかった。だから、先生からストレスのはけ口にされることも理解できた。そのせいで内向的になったとしても、別に今になって咎めに行くほど、恨んではいない。

毎日のように怒られながらも、家では愛を受けていたと思う。家族3人で談笑しながら晩飯を共にした映像が浮かんでくる。どこかに旅行に行った経験も、何度もあった筈だ。

つまり、全く愛を知らない人間では無かったということだ。しかし、愛の味を知っているからこそ、失った時には口が淋しくなるものだ。

小学校に上がると、俺は人との関わりを避けた。というよりも、近づかせないように刃物を振り回していた。人は、傷つかないように俺を避けた。家では、精神病になった母親が、ヒステリックに俺に怒鳴った。泣き寝入りする俺を、別人格の母親が、抱きしめた。愛と呼ぶには恣意的な、重さが絡みつくものだった。

俺は、倒錯した人間だと分かっていたから、日に日に自分が嫌いになった。自分の顔が憎かった。笑顔が、醜かった。だから、笑わないように努めた。人を好きになってはいけないと思った。毎日が白昼夢のように浮き足立ち、膜に包まれているような感じがした。生きているのか、死んでいるのかも、分からなかった。

ある日、俺は死ぬと言い、車道へと駆けた。その時は親に止められてしまった。もう、どちらでもよかった。いずれにしろ、俺は近い将来に自殺をするのだと思った。だから、中学に上がっても、彼女は作らないと決めていた。好きな人の制服姿を見て、満足していた。それだけで良いのだと俺は思った。

高校は、クラスに女子が1人の、殆ど男子校のような学校だった。俺には別に友達がいたから、何も気にならなかった。ただ、忘れていた愛の味を確かめたいと思った。そこで、ゲームのキャラクターを丸めた布団に投影し、脳内で会話することにした。元々想像力が逞しかったのか、みるみるうちに現実味を帯び始めた。彼女は呼吸をし、考え、俺の相談に乗り、違った角度からの意見を述べた。やがて、俺の生活に欠かせない存在になった頃、彼女は現実にも姿を現し始めた。光源のグラデーションとベタ塗りの絵は、当然のように調和を保っていた。彼女はさも当然の如く歩き回り、電車の中でも気にせず話しかけてくる。しかし、これでは学業が手に付かないので、彼女との逢瀬は就寝前だけと決め事をし、紋切り型の青春の如き日々を過ごした。

俺の生活は、順当に育ってきた人が社会生活を営むように、安定していた。ただ、違いがあるとすれば、人々は死というものをここまで身近に感じてはおらず、まさか自分に死が訪れる訳がないと、どこかで思っているのである。そして、自らの予想通りに、俺は自殺を決行した。しかし、いくつかの失敗する因子が重なり、生かされる形となった。驚いたのは、全身が痺れ、死が目の前まで近づいた時、彼女の顔も思い出せなかったことだ。俺は、どこかで小さく、生きたいと思ってしまった。自殺をする前に、彼女が止めてくれた訳でもなかった。むしろ、同じ脳内なのだから、心中するという心算で決行した筈だった。

俺の人生は、この自殺に向かって歩んできたものだった。しかし、失敗した今、思考を全て移行させなくてはならない。だが、脳内彼女は当分消すことはない。自らが愛されるべき人間かも分からないのに、他人に思考を委ねるのは、自分にとっては、恐ろしいことだからだ。

エレファントカシマシ

昨日の「音楽の日」という番組に俺の大好きな「エレファントカシマシ」というバンドが出演していた。彼らはいつものようにステージ上で命を燃やし、全力を尽くして音楽を伝えようとしていた。ボーカルは目をひん剥き、ぎこちなく拳を突き上げながら叫んでいる。

思えば、俺の中にはいつも彼らの曲が流れていた。

学校から家へと向かう電車の中で流れていた曲は「友達がいるのさ」。

 

電車の窓にうつる 俺の顔 

幸せでも不幸でもなかった

 

淡々と流れる日に、この曲は少しの起伏を与えていた。

 

俺はまた出かけよう 

あいつらがいるから

 

俺に友達はあまりいなかったが、この曲は、余裕が無く今しか見えなかった俺に、確かに前を向かせてくれた。

電車から降り、街灯の少ない昔の商店街を歩いていると、「シグナル」が流れた。

 

夜はふけわたり 家までの帰り道

町を見下ろす丘の上立ちどまり

はるか、かなた、月青く

俺を照らす 街灯の下

ベンチに座り、自分の影見つめてた

 

夜の底を流れるようなメロディが身に沁みた。

口ずさみながら家へと帰ると、今度は一日燃やした身体が煤になり、心を黒く覆いつくす。そんな時には人間的な本能が明るい曲を奏で出す。「笑顔の未来へ」。

 

so sweet 泣いてるメモリー

涙のテロリストは 手に負えない行こう

輝くメロディー あなたを連れて行くよ

笑顔の未来へ