ウヨキョクセツ(仮)

躁鬱病改め、統合失調症らしい。闇をぶちまけたり、ぶちまけなかったり。

自分の空間

俺はいつものようにベッドに横たわり、昇りきっていない朝焼けに身を浸しながら、携帯でTwitterを開いていた。前日からの鬱傾向を引き摺り、ネガティブなツイートを撒き散らす。そうなると、自然と話題は「自殺」についてのものになる。俺が自殺したら皆はこうしてくれ、こう思ってくれ、と、一種の遺言状にも似た文体で書きなぐっていた。文章にして吐き出すことで多少は楽になったのか、現実味の帯びた夢を見ながら眠りに就き、12時の鐘と夏の蒸し暑さで目を覚ました。

俺はチャットアプリで自分より不幸な人間を見て安心すると、溝を浚ったように軽快になった。レンタルビデオ店に行き、映画とバラエティ番組をレンタルすると、周囲の人々との緩い繋がりが社会に何気なく溶け込めている自分を実感させ、思考の歪みを取り払ったように思われた。

居間でレンタルしたバラエティ番組のDVDを休み休み視聴すると、時間はいつもの如く過ぎ去った。

手持ち無沙汰からTwitterを開くと、自殺に関しての俺のツイートにリプライがついていた。内容は、「自殺のツイートを見て気分が良い人はいないから、そんなことをツイートしないほうがいい。止めようと気にしてしまう」というものだった。おそらく、この人は理性で物事を考えている、「良い人」なのだ。だからこそ、忠告もするし、止められないものを止めようとする。しかし、相手の気持ちを考えることに欠けている。人の発言には「相手にこうしてほしい」という願望が付き纏うもので、この場合の俺は、「放っておいてほしかった」のである。あくまでも反論を求めた訳ではない。普通ならこのようなことがあれば、俺はその人のことを嫌いになるだろう。人は予想外のことをされるとその人のことを嫌いになる筈だからだ。しかし、相手の性格を受け入れている俺はそんなことにならない。それが、良いか悪いかはまた別の問題なのだ。