俯いて歩く
都内に越してきてから、人に対する興味が薄れている。
外に出れば各々の匂いを身に纏い、闇を覆い隠した人々がひしめき合っていて...。
こんな人数に捧げる愛は俺には無いと思う。
だから、ここで生活する人は、忙しなく、生き急いでいるように見えるんだ。
それは、適応から。
俺は、全ての人を受け入れられるようになれるのですか?疲弊したこの俺に。
余裕が生まれるまでもう少しの筈。
だから、電車のお婆ちゃん、道端の紙くず、今だけは視界に入れないでいいかい...
悪いね。
人間感情惨憺調
イラついている。
俺は今喧噪にまみれている、ただそれだけなのに。
声、声、音、音、音。
人の声が、音が、神経を逆撫でる。
温厚だったはずだが、病気のせいなのか。
それとも、病気であることを自覚したことによる一種の自己催眠か。
大声を出しそうになる。物を叩きつけたくなる。
他人の嫌なところばかりが目に付く。あいつは自分語りばかりする、あいつの声質は腹立たしい。
思えば、今までの俺には怒りが無かった。
消化するまでもないものであり、受け流すことができた。
あの時はひょっとしたら鬱状態だったのだろうか。
病気から回復しつつある今、やはり、色々とやり直さなければならない。
今はただ、帰って眠ればいい。
繊細で鈍感で
今週のお題「わたしのインターネット歴」
家にインターネットが引かれるまでは、学校のコンピュータルームで「yahooきっず」なるものを利用して、当たり障りのないものばかり調べていた。そこではインターネットの闇が排除されており、便利な百科事典程度のものだったと思う。
たまに親戚の家に行くと、本当のインターネットがあった。フラッシュ全盛期だった当時は、面白い動画や、恐ろしい動画がたくさん転がっていた。
ビビリだった俺は、よく親戚に恐ろしい動画を見せられて、眠れなくなったものだ。
親戚は、俺より2つ年上で、よくインターネットを使いこなしていた。
チャットルームで友人と話したり、メールで女の子と話したり、オンラインゲームをしたり...
小学校高学年になって俺の家にインターネットが引かれたとき、パペットガーディアンを始めたのも、この親戚の影響からだった。
ゲームの中で親戚と話しその友人と話しながらも、小学生の俺と中学生の向こうの間に、不透明な壁があるような気がして、疎外感を感じたものだ。
今思えば、そういった全く違う年齢の人々が出会えるのも、インターネットの良さなのかもしれない。
ゲーム中に酷い言葉を浴びせられて落ち込むこともあれば、褒められて舞い上がったこともあった。
実際に顔が見えないぶん、言いたいことを言えるようになってしまっている、良くもあり、悪くもある部分である。
暴言を浴びせられ、言い合いになっている所をよく見た。反論は自己防衛の手段という可能性も考えると、本当は繊細な人間が集まっているのじゃないか、とも思う。
2chなどでは特にそうかもしれない。ROM専ではあったが、2chをよく見ていた時期があった。知性で上をとろうとする人もいれば、まともな書き込みをする人間もいる。
馬鹿げた板もあれば、真面目な板もある。あそこはまさにインターネットで、俺は今でもたまに覗きに行くことがある。
和気藹々としている空間で冷めるような発言をするのも分かる。嫉妬心からそのような発言をしたと考えれば、許容できやしないだろうか。少なくとも自分は、そのようなことをしたことがある。
みんな、何でも真正面から受け止めてしまうのだ。俺だってそうだが、「死ね」という言葉を受け流すほどの強さがあれば、何でも面白がることができれば、寝るだけで全て忘れられてしまえば、どんなに良いか。
鈍感を装った繊細な人間達が、今日も書き込みをする。相手がどう思っているかなんて、考えたくもない。鎧を身に纏うしか、ないのだから。
割れたiphone
蛍光灯の光で満たされた部屋のテーブルには、真ん中からパックリと割れ画面に蜘蛛の巣のようなヒビが入ったiphoneが置かれている。
俺は昔親に買って貰ったiphoneを、床に叩きつけて壊したことに、べつに何の罪悪感も感じていなかった。それどころか、内に雪崩れ込むようなイライラの感情も、万華鏡のような矛盾した感情も、しんと息を潜め、俺はこれからどうするべきかを冷静に考えていた。
俺はあまり怒りの感情を表に出さない人間だったが、それは出さないだけの話だった。
積もり積もった感情は内側へ牙を剥き、俺は何回かタバコを腕に押し付けた。
ケロイド状になった傷跡は黒々とした灰からピンク色の肉が覗き、どこか艶かしさがあった。
そんなことを思い出しながら、今の自分と比較してみると、今の俺は確かに、怒りが外に向かっていた。これが進んだら人を傷つけかねない。そう思った。
だから、俺は入院することにした。通院先の病院に電話してみると、来週にはベッドが空くらしい。
理性的な判断が下せる内に決めてしまったほうが、おそらくいいのだ。
未来は暗いが当たり前
ガキの頃、俺は近い将来自殺するんだと思っていた。いや、すると決めていた、と言ったほうが正しいのかもしれない。自分には突出した才能も何も無いと思っていたし、何より愛されるべき人間ではないと思っていたからだ。
その頃の俺は、確実に死に向かって歩んでいた。
俺らはなぜか死に向かうことを知っていながら、死とは無縁の生活をしている。そこから見れば、俺は異端だったのかもしれない。
だから、周囲で恋人を作っている奴等を見下していた。悲しませるのは目に見えているのに、なぜそんなことをするのだろうか、と。
だが、友達は何人か作った。どうせ馬鹿話をする程度のものだから、俺が死んでも誰も悲しまないだろう、と思っていた。
何年か経ち、結局死ねなかった俺は未だに才能を見つけられていないし、愛の受け取り方も分かりかねている。どんなものより確実な過去がそうだったのだから、将来に希望は持てない。
そもそも、未来を想像すること自体、ナンセンスなのかもしれない。
未来は暗い。それは当たり前のことだ。俺らには危険予知の能力が備わっているし、突き詰めれば死が待っている。だから、皆見ないふりをするのだろう。過去と未来に挟まれた「今」の一瞬を生きるのだろう。
俺は、やり直さなければならない。今の一瞬を積み重ね、確実な過去へとしていかなければならない。未来は当分、見るのもごめんだ。
綽綽余裕の恋愛弱者
俺の周囲には恋愛してる奴が少ない。類が友を呼んでるのかもしれねぇが、でも中には、共学で恋愛してきた奴もいる。まぁ、そいつは顔が良かったから例外的かもしれねぇが、生きていくために欠かせない浅慮さをしっかりと持っていた。
一方俺に似た連中はというと、不器用な真面目さと、一途さ、不必要な思考力を持っているせいで、所謂、重い愛ってやつになっちまうんだな。愛って重いもんじゃねぇのか?と思ってたが、世間的にはそうでもねぇみてぇだ。そう思って思い返すと、家族の愛ってのは軽快なもんだったかもしれねぇ。それは俺がガキだったから、言語で思考するってこともできなかったってのもあるのかもしれねぇ。だが、確かに家族の愛には、重い地盤と、その上に流れる明るい空気があった。
もしかしたら、どれだけ外に出すかってぇ違いかもしれねぇ。許容量を超えて溢れ出たもんだけが相手に伝わりゃ、その奥まで読み取れるってこと。
そう考えると、言語上、表面上だけで愛し合う奴らのなんて上滑りなことか。なんて、上に立ちたい訳じゃねえ。花が実になってくみてぇに、後から作られることもあるじゃねぇか。ただ、それをしてる奴らには、例えりゃ、相手を高価な飾りもんみてぇにしてることもあるってことだ。SNSとかいうショーケースの中に自ら進んで見世物になっていく輩がいるわけだ。そこから成長できなきゃ、すぐに別れるのも無理はねぇな。
でもな、こういう奴らってのは意外と多いんだ。まず、世間的な流行の顔って奴と見比べて顔が良いか判断する。そんなのはなんの意味もねぇのにな。自分の好みに従うだけ、感覚に従うだけでいいんだが、それが麻痺しちまってる奴が多いみてぇだ。
彼女彼氏の顔が好きだ、性格が好きだ、なんだかんだってのも、存在自体を愛するとこまで行かなきゃ意味がねぇ。まぁ、かく言う俺も、それができているのかは疑問だが...