ウヨキョクセツ(仮)

躁鬱病改め、統合失調症らしい。闇をぶちまけたり、ぶちまけなかったり。

俺とゲーム

今週のお題「ゲームの思い出」

小学校低学年の頃はまだゲームをやっていなかった。親の教育方針で、買い与えられなかったのだ。友達の家に集まったみんなが、外へも行かず、DSの画面に集中していたのを思い出す。明らかに子供たちの中で新たな遊びへの遷移が起こっていた。俺は、細切れのSEが囁く部屋でサッカーボールを持ち、立ち尽くしていた。それまで忘れていた孤独感を思い出し、それからほどなくして、親にねだって念願のDSとNew Super Marioを購入した。それまでゲームの経験が殆ど無かった俺は、1時間のプレイで熱が出て、1-2すらクリアできなかった。1-2の壁があまりにも厚すぎてマリオに飽きてしまった頃、父親が俺のゲーム機でマリオをプレイし始め、ついにクリアしてしまった。俺は父親のプレイを見ながら上達し、ついにはゲームの楽しさに目覚め、完全にドハマりしてしまった。

小学校高学年になると家にデスクトップコンピュータが届き、光回線が引かれた。全く未来の機械に慄きつつも、インターネットの世界に徐々に入っていった。その中で俺は、パペットガーディアンというゲームに出会った。ブラウザ上でプレイでき、チャットをメインとしたシステムは、アメーバピグの前身とも言えるゲームである。元々友人が少ない俺は、プレイしながら、ネットの世界の人脈も少し広がり、生活の中で欠かせない居場所だと感じていた。それでも、時には傷ついた。ネットの中の人々は鈍感で、鋭利な言葉を振りかざす。そのたびに自分のどうしようもない浅慮さを呪い、周囲に溶け込めるように努力した。

中学になると明るくなろうと心に決め、生活の中での友達がたくさんできた。当然、徐々にパペットガーディアンからは離れていった。それでも、ゲームはやっていた。この頃は、FPSにハマリ、低スペックのPCでカクつきながら、毎日のようにプレイしていた。ゲームの中の自分は、現実と比べると、超人だった。銃弾を何発も耐えられ、物凄いスピードで走り、跳び、敵を倒していた。それは、今でも変わらない。いつだってゲームの中では自分が主人公で、暗く澱んだ気分を忘れさせてくれる。それは、あるいは現実逃避なのかもしれない。しかし、生きていくためには必要なものなのだ。俺にとって。